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	<title>奈々の氷山の一角</title>
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		<title>北海道南西部にある函館市は</title>
		<description>渡島（おしま）半島の南東部にあたる亀田（かめだ）半島に位置し、南は津軽海峡に臨み、西には函館湾をいだく。

道南の政治、経済、文化の中心地であり、渡島支庁が置かれている。

初めウスケシ（アイヌ語で湾の端の意）とよばれていたが、1454年（享徳3）ごろ小豪族河野政通（まさみち）が函館山山麓（さんろく）に築いた館（やかた）が箱の形にみえたところから箱館（はこだて）とよばれるようになったという。

1922年（大正11）市制施行。

1939年（昭和14）湯川（ゆのかわ）町、1966年銭亀沢（ぜにかめざわ）村、1973年亀田市を編入。 </description>
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		<title>修学旅行は修道院でした</title>
		<description>エジプトの修道院が外部に広まってゆくのは、多数の修道士がこの地を去って他に移住したためともいわれる。

確かに、400年ごろアレクサンドリアのテオフィロスとオリゲネスを支持する4人の修道士との間でおこった「オリゲネス論争」に関連して、アレクサンドリア近辺の修道士は大量にエジプトから追放されたし、407～408年にはナイル川のデルタ地帯がマツィカエ地方の蛮族の侵入を受け、数千人の修道士の集落たるスケティスに壊滅的な打撃を与えた。

そのことを、隠修士アルセニオスArsenios（生没年不詳、5世紀前半の人）は西ゴート人による410年のローマ略奪になぞらえて、「世界はローマを失い、修道士はスケティスを失った」と語ったから、これも原因の一つに数えられようが、修道院の東西への拡大は5世紀に入る前にすでにかなり進捗（しんちょく）していた。

ヒラリオンとカリトンがパレスチナにラウラlauraとよばれる散居型の修道院を開いたのは、4世紀の前期であったし、シリアのアンティオキア、ベロイア、カルキスの荒野に多数の隠者がいることをヒエロニムスが報告したのは、374年のことである。

もっとも、アンティオキアの近くでシメオンSymeon (Simeon)（390ころ―459）が10メートル以上もある柱の上で、30年もの間修行して上下の崇敬を集めたのは5世紀に入ってのことであるが、これはエジプトから入ったものではなかった。

会計事務所 鏡 インテリア ミラー






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